2009年11月

14日の深夜、急変の連絡を受けて病院に向かう車の中で、父が息を引き取ったことを知りました。
電話を切ると、電話の内容に気づいた妻が、運転をしながら「間に合わせられなくて、ごめん・・・」と言いました。
妻は、泣いていました。
僕は、電話を切った後も全く実感がわかず、不思議なほど悲しさを感じませんでした。

病院には、予定より30分早く着きました。
父の死の2時間後でした。
外に出ると空気がとても冷たく、東京から遠く離れた場所に来たんだと実感しました。
夜間受付からロビーに入ると、ビニールのエプロンをつけた母が父の亡骸のもとに僕たちを連れて行ってくれました。
父の顔はとても穏やかなで、眠っているように見えました。
父の頬に触ると、まだ温もりが残っていました。

父とともに帰宅し、遺体の安置が終わると、母はまた父の胸に顔をうずめて泣きました。
母は、自分がどれだけ父を愛していたのか、どれだけ父を必要としているのかを父の亡骸に向かって繰り返し語りかけていました。
生前からお互いを認め合い、愛し合った夫婦でしたので、母の発言はある意味いつもどおりのものでした。
ただ、当然のことではありますが、父はいつもの無邪気な笑顔でそれに応えることはできないわけで、その事実が母の悲しいみををよりいっそう深くしているように見えました。

翌日、父の大学来の友人の秋山さんが弔問に訪れました。
秋山さんは玄関を開けると父の遺体が安置されている部屋に飛び込み、ものすごく大きな声で「なにやってんだおい」と言うと、父の肩を掴んで嗚咽しました。
秋山さんは、まるでそうすれば父が生き返るかのように、肩を揺さぶり、頬をさすり、いろんなことを語りかけました。
落ち着くと、秋山さんは、父との思い出をたくさん教えてくれました。

通夜の後、家族だけでお酒を飲みなおしました。
父の死依頼、取り乱すか気を張るかしかしていなかった母が、ようやくリラックスした表情を見せてくれるようになりました。
久しぶりに家族そろっていろんな話をしました。
兄が父に優しくしてあげられなかった理由や、母がどんなに父を愛していたかを示すエピソードや、僕が家を飛び出したときの話など、今だからこそ話せる話をたくさんしました。
母は、父がこういった機会を設けてくれたんだ、と言ってまた泣きました。
でも、それまでとは違い、笑顔交じりの泣き顔でした。

火葬場へ向かう道は、父が僕をよく車に乗せて連れて行ってくれた道でした。
当時は砂利道で「がたごとの道」と、父と僕は呼んでいた道が、今では広くてきれいなアスファルトの道路に生まれ変わっていました。
車が揺れると喜ぶ僕のために、わざわざ遠回りしてまで通ってくれた道でした。
妻にがたごとの道の話をしていると、涙が溢れ出てきました。
悲しいわけじゃないのに、涙が止まりませんでした。
父は、兄や僕が望んだことは万難を排して実現してくれました。
がたごとの道は、その象徴だったのかもしれません。

告別式には様々な方が弔問に訪れ、口々に父に「世話になった」とお礼を言ってくれました。
怖い人だったと言う人も、おもしろい人だったと言う人も、その両方だと言う人もいました。
秋山さんが弔辞を読んでくれました。
深い友情をそのまま言葉にしたような、とても素敵な弔辞でした。

すべてが終わると、母はずいぶんと前向きになっていました。
ふとした時にまだ涙を見せることはありましたが、その表情は引き締まっていました。



僕の父は、頑固で、こだわり屋で、やさしく、偉大で、愛情深く、最後まで弱音を吐かなかった人でした。
僕はまだ、もうこの世にそんな父がいないということになじめていません。
僕の父は、本当にすばらしい父親でした。
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