寺井先生は、僕が小学校4年生の時に僕たちの小学校に新たに赴任してきた先生だ。

それまで僕たちのクラスの担任だった佐藤先生はベテランの(多分)やり手教師で、生徒からの人気が高く、今振り返ってもスムーズなクラス運営をしていた(ちなみに長野県にはクラス替えという制度が無い。だから、転校のような例外を除けば6年間クラスメートの顔触れは変わることが無い。)。
その当時、1組はいい子たち、2組は悪ガキたち、といった位置づけだった。

佐藤先生は僕たちが3年生のときに学校を去り、4年生からは寺井先生が僕たちの担任になった。
ペヤングのように四角い顔をし、眼鏡をかけた、ベンゾウさんみたいな風貌の先生だった。
寺井先生は、3月に大学を卒業したばかりの新卒の教師だった。


寺井先生は、とにかく一生懸命だった。
子供の目から見ても、授業や宿題といった場面で様々な工夫を施しているのがよくわかった。
それにもかかわらず、無常にも僕たちのクラスは寺井先生が担任になってからものすごく荒れた。
授業中席を立つ子なんて日常茶飯事、クラスを出て行ってしまう子だっていた。
たしか、学校に来なくなった子もいたはずだ。
そう、それは今で言う、学級崩壊ってやつだ。
原因はいろいろあったんだろうと思う。
そして、その原因の一つとして、寺井先生の力不足があったことは、きっと否定はできない。
一生懸命やったからと言って、結果がついてくるとは限らないからね。

学校には親から相当のクレームがあっただろうし、同僚や先輩からも、いろいろ言われただろう。
何より、自分のクラスがみるみる崩壊していくのを止められないのは、教師として忸怩たるものがあったと思う。
同時期に変わった2組の担任がうまくクラスをまとめ上げたこともあり、4年生も半ばにして、ダメになってしまった1組、生まれ変わった2組、と、僕たちは認識するようになっていた。
小学校の教員だった僕の母も、「寺井先生は、だめねぇ」と、嘆息していたような記憶がある。


でも、僕は、寺井先生がだいすきだった。
理由はよくわからない。
でも、たしかに僕は、寺井先生がだいすきだったんだ。


寺井先生は、たまに「ノート1ページ分、自分で課題を設定し、自分でその課題を解いてくる。」という宿題を出すことがあった。
僕たちにとって(そして、多くの小学生にとって)宿題というものは、しなければならないことが決まっているものだったので、僕たちは大いに困惑した。
でも、僕たちはすぐにその宿題の”コツ”を掴んで大いに楽をした。
僕は、レモンの汁であぶり出しで文章を書いてそれを宿題として提出したことがあったけど、さすがにこれは「これじゃ課題が無いじゃないか。」とダメ出しをされた。
でも、先生は、あぶり出しというふざけた題材を選んだことについて怒ったりはしなかった。

遠足の自由時間に、寺井先生は僕たちと相撲をした。
10歳そこそこの小学生が23歳の四角い顔の男に相撲で勝てるわけは無い。
僕たちは、「先生に相撲に勝ったら、明日の宿題無しにして」と言ったら、先生は「いいぞ。」と言った。
だから、僕たちはみんなで一斉に飛びかかって、先生を押し倒した。
その次の日は、みんなが宿題無しになった。
いつになっても宿題を始めない子供に「宿題は?」と問いかけたら「相撲に勝ったから無しになった。」なんてこたえが返ってきたら、ほとんどの親は苦々しく思うんじゃないだろうか。ましてや、現在絶賛学級崩壊中の1組が、だ。
それでも寺井先生は、宿題を無しにした。
それが先生と僕たちとの約束だったからだ。


いろんなイベントを重ね、1組が「佐藤先生のクラス」から、「寺井先生のクラス」に変わっていくにつれ、元通りとはいかないまでも、僕たちは徐々に落ち着きを取り戻していった。
相変わらず、周りからは「ダメになってしまった1組」と言われてはいたけど、僕たちはもう、佐藤先生の方が良かったなんて、思わなくなっていた。

そして、5年生の終業式の日を迎えた。
誰にとってもそうだと思うけど、5年生にとっての終業式なんて、春休みが始まる前の日に行われる、退屈な行事でしかない。

でも、僕たちにとって、5年生の終業式は全然違う意味を持っていた。
終業式の朝、寺井先生が深刻な面持ちで、「先生は、みんなに謝らなければならないことがある。」と話し始めたからだ。
「実は、先生、金沢に帰らなきゃいけなくなった。来年、みんなの担任になれなくなったんだ。」、と。

寺井先生によると、金沢で一人暮らしをしているお母様が倒れたため、自分が側にいようと決めた、とのことだった。
バラバラだったクラスが徐々にまとまりを見せ始め、卒業まであと1年という時期のリタイアだ。
きっと、苦渋の選択だったんだろう。
寺井先生は、事情を話しながら、こらえきれなくなったように涙をこぼしたかと思ったら、すぐに顔をぐしゃぐしゃにして泣きはじめた。
僕は、大人があんな顔をして泣く姿を初めて見た。
それはまさに、嗚咽だった。

「本当にすまない。みんなをあと一年、担任できなくて、本当ににすまない。」
先生は最後にそう言って僕たちに頭を下げた。
5年生の終業式なんて、春休みが始まる前の日に行われる、退屈な行事でしかないはずだった。
でも、僕たちにとっては、すごく重要な一日だった。
僕たちにとって、寺井先生はかけがえのない存在になっていたから。

今振り返ってみると、寺井先生の教師としての力量は、やっぱりいまいちだったんだろうって思う。
ただ、寺井先生は、少なくとも僕たち一人ひとりと真剣に向き合っていた。
子供は、周囲の大人たちがどういった思いで自分に対応しているのかを敏感に感じ取るものだ。
だから、僕たちも寺井先生に遠慮なくぶつかっていったんだと思う。


僕たちは3年間、ずっと”いい子”だったけど、寺井先生の庇護のもとで、”いい子”で居続けるのをやめることができた。
もしかすると好意的に過ぎる解釈かもしれないけど、本気でそんな風に思うことがあるんだ。


僕は今まで何人もの教師のお世話になってきたけれど、僕が「先生」と聞いて最初に連想するのは、いつも寺井先生のメガネを掛けた四角い顔だ。
考えてみれば、今の僕は、あの時の寺井先生よりも10も歳上になっている。
それなのに、僕にとっては10歳下の寺井先生は、いつになっても先生のまま。
とても不思議な感覚だ。


僕は、寺井先生がだいすきだった。
理由はよくわからない。
でも、たしかに僕は、寺井先生がだいすきだったんだ。