今日、毎日勝手に撮り溜められていく「お母さんといっしょ」を娘と一緒に見ていたら、童謡のシャボン玉が流れてきた。

思わずハッとして娘の横顔を窺ってしまったけど、当然1歳半の子供がこの歌の背景を知るわけも無く、いつもと同じ様子でニコニコと食い入るように画面を見つめているだけだった。



  シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ
  屋根まで飛んで こはれて消えた
 
  シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
  生まれてすぐに こはれて消えた
 
  風々吹くな シャボン玉飛ばそ



僕が野口雨情の悲しい体験を始めて耳にしたのは、確か小学生の時の校長講話だったと思う。
その時は、トリビア的に「へぇ」って感じただけだったけど、日々成長していく娘と並んでこの歌を聴いていると、まだ子供だった頃には感じる事の無かった切なさに、胸がぎゅっと締め付けられてしまった。

今になって思うと、別にそれは、単に子供を失うことの悲しさをダイレクトに感じたからというだけではなくて、12年という歳月を超えて、「風々吹くな シャボン玉飛ばそ」と言える前向きな意志をあらわにできた事に対する敬意や、聴く人を包み込む優しさに気づいたからなんじゃないかって気がする。

僕は、自分の大切な人を失った後、自分以外の人に対して「風々吹くな」って言えるためにどのくらいの年月を必要とするんだろうか。
というかそもそも、自分自身を悲劇の主人公にするのをやめて、そんな気持ちを持つ事自体、可能なんだろうか。

良くわかんないけど、まぁ考えてみてもしょうがないから今日はこの辺で。