記憶は移ろいやすいもので、時間の経過とともに薄れゆき、場合によっては無意識のうちに書き換えられてしまうことを止めることはできないけれど、書き残したことはそのままの姿でそこにあり続けます。
今朝、あのとき、自分が何を考えていたんだっけとふと思い、久しぶりにtwilogにアクセスし、3年前のtweetを読み返してみました。

当時、僕はビルの17階のオフィスで船に乗っているかのような揺れを感じ、その後、テレビ中継で津波が見知らぬ土地を蹂躙していく様を同僚と一緒に呆然と眺めていました。
携帯は繋がらず、家族の安否がわからない不安。
直後の大きな余震がまた繰り返されるのではないかという不安。
書いてあることとは無関係に、いろいろな記憶が怒濤のようによみがえってきます。

あの地震のあとの最初のtweetは

でした。
その時は、原子力発電所が爆発するということも、膨大な死者・行方不明者がでているということも、3年経っても更地のままの土地がいたるところに残されることになるということも、何も知りませんでした。
大変なことが起きたとは思ってはいたものの、この時点では完全に他人事でした。

翌日、そのまた翌日へと読み進めていくと、当時のねじまがった感覚も蘇ってきました。
ねじまがった感覚というのはつまり、絶望とか焦りとかそういうものに支配されていたのに、言ったり書いたりすることはポジティブなことだけにしなきゃならないと思っていた、ということです。
そうしなければならないと、誰に言われたわけでもないのに。

このエントリーに、オチや教訓やまとめはありません。
3年前に自分が書いたものを読んだら、それがきっかけになって(まるで燃焼反応のように)鮮烈に当時の記憶がよみがえったという、それだけのことです。