先日、スタジオジブリが公式サイトで以下の発表を行ったことが大きな話題になりました。
今月からスタジオジブリ全作品の場面写真を順次提供することになりました。今月は、新しい作品を中心に 8作品、合計400枚提供します。

常識の範囲でご自由にお使いください
STUDIO GHIBLI「今月から、スタジオジブリ作品の場面写真の提供を開始します」


言うまでもなくアニメ映画の場面画像は著作物であり、著作権者のコントロール下にあるため、著作権の例外(例えば私的使用のための複製や、引用など)に該当する場合を除き、その利用は著作権を侵害するのが原則です。

今回の発表の狙いはすでに多様な分析がなされているので、このエントリーでは「常識の範囲内」であることを条件に著作権者がその利用を許諾する、という法的な枠組みの方に着目したいと思います。

外縁があやふやな条件がもたらす効果


ジブリが提示した「常識の範囲内」という条件は、
  • 誰にとっての常識なのか
  • いつ時点の常識なのか
  • 常識とは何か
    の3点がそれぞれ不明確なため、その取扱いが非常に難しくなっています。
    1点目について言えば、もし鈴木プロデューサーの常識が基準なのであればその限界を外部からうかがい知ることはできませんし、仮に客観的に常識とされるもの、だとしても、次は3点目の「常識とは何か」という壁を乗り越えなければなりません。
    更に厄介なのは2点目であり、常識は時代の変化や技術の進歩に併せて移ろいゆくものであり、安定していないというところにあります。
    このようなあやふやなライセンスに依拠して大規模な利用をすることは(まともなライセンシーにとっては)なかなか難しいため、一見フリー素材に準じたようなライセンスに見える「常識の範囲内」ライセンスは、大規模な商用利用を抑止する効果ももたらしています。それが狙いなのかはわかりませんが。

    非常識な人に対しては脆弱


    上記の通り、一見自由に使えるように見えて一定の抑止効果を得られる「常識の範囲内」ライセンスですが、その反面、非常識な利用者に対しては使い勝手が悪いという難点があります。
    なぜなら、ジブリ側が「非常識な利用だ」と判断した利用者に対して著作権侵害を主張する場合、ジブリ側が「常識の範囲内」という条件を満たしていないことを立証しなければならないため、上記の「常識のあいまいさ」がブーメランとして戻ってきてしまうからです。

    ただ、上記の難点は、あくまで法的な枠組みの中で常識の範囲外利用に対抗することを前提とするもので、重厚なファン層を保有しているジブリにとってはそもそも考慮する必要は少ないとも言えます。つまり、(実際にそうするかは別として)特定の「非常識利用」を指して「こういう利用をされてしまうようであれば、今回のようなライセンスは取りやめなければならなくなるなぁ」と呟けば、ファンがこぞってそのような「非常識利用」を潰しにかかってくれることが強く期待できるからです。

    このやり方はうまくできているなぁと思いつつ、誰でも真似できるものではないな、とも思うわけです。

    撤回ベースライセンスという表現の仕方もある


    今回ジブリがそれを狙っていたのかは全くわかりませんし、そうでない可能性の方が高い気はしているのですが、事前に厳格な要件を定めず、自由な著作物を利用を促進すると同時に、意にそぐわない利用を抑止したいという狙いはそれなりに普遍性があるものだと思います。
    そこで、仮に自分が同様の依頼を受けてライセンス文言を創るとしたら、どうやるのかな、と想像し、書いてみたのがこちらです。
    最短距離で根っこだけ抑えることを意識しましたが、それでもそれなりのボリュームになってしまっているのは、ひとえに私の実力不足と、穴があったら塞ぎたくなる法務の悲しい性によるものです。
    自分で代替案を考えてみて、(暗黙の前提に支えられているとはいえ)たった一言で同等の効果を得られる「常識の範囲内」ライセンスの偉大さを再確認した次第です。

    常識の範囲内ライセンスが気づかせてくれたこと


    今回の「常識の範囲内」ライセンスは非常に極端な例ですが、解釈の幅が大きい規定は「法の余白」と呼ばれることがあります(私はシティライツ水野先生法のデザインを読んで意識するようになりました。)
    このような余白の大きい規定は、前述の様に不自由さと自由の両面を併せ持つ不思議な存在で、水が半分入ったコップのように、ある種のテスターとしても機能するのかもしれないということを感じました。
    別の言い方をすれば、日々実務に追われていると、こういった余白は正直「めんどくさい」としか思えないのも事実ではありますが、それを自由自在に乗りこなせることは、最近言葉が独り歩きし始めている法務のクリエイティビティのひとつなのかもしれません。

    また、あらためて考えてみると、その外縁が不明確なのは別に珍しいことではなく、例えば引用の要件も「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるもの」という、かなりあやふやなものです。実務上は、裁判例に従ってきれいに整理された主従関係や必然性などの要件に従って引用の適否を判断することの方が多く、通常はそれで十分なのもまた事実ですが、敢えて沼に足を突っ込んで靴やズボンを泥だらけにしなければ、余白を使い切ることってできないんですよね。
    今回も「●●は常識の範囲内か」みたいな基準のわかりやすさを追い求める議論も見かけましたが、そのような行為は、かんたんさと引き換えに、余白を良さを自らの手で消してしまっているんじゃないかな、と思ったりもするわけです。まぁ、言うのは簡単、やるのは大変の典型ではあるわけですけど。

    といったところで、今日はこの辺で。