前にも「常識」について何度か書いているけど、モラルとか常識とか、そんな漠然とした判断基準で人の行動についてとやかく言うのは、そろそろやめにしませんか?

いや、別に「これがモラルです」という指標がメンバーの共通認識になっているなら何も文句はない。
でも、少なくとも現在の日本は価値判断基準の多様化がとても進んでいて、共通認識を形成できる分野なんてかなり限定されてしまうんじゃないだろうか。
そして、そんな統一した指標がほとんど打ち出せない世界でのモラルなんてものは、ただの幻想に過ぎないんじゃないかと思う。

別に、そんな幻想に頼らなくても、
ダイエーが非難されるのはインモラルだったからじゃなくて、ふざけた経営判断で多くの被害を出したからだ(もしくは、ダイエーが単に気に食わないからだ)と言えばいいんじゃないだろうか。

西武グループが非難されるのはインモラルだったからじゃなくて、違法行為を、しかもおそらくは意図的にしていたからだ(もしくは、西武が単に気に食わないからだ)と言えばいいんじゃないだろうか。

年金法案の強行採決が非難されるのはインモラルだったからじゃなくて、強行採決は民主主義の理念に反する行動だったからだ(もしくは、自民党が単に気に食わないからだ)と言えばいいんじゃないだろうか。


確かに、「非常識」や「インモラル」を理由にすれば、頭を使うことなく、しかももっともらしく物事を否定できる分、楽なのだとは思う。
でも、そういったあいまいな基準を持ち出してしまうと、実りのある議論をすることがとても難しくなるし、発言に対する責任の所在があいまいになってしまう。


つまり、ありもしない幻想の客観的基準に照らして物事が否定されてしまえば、否定された側としては、その幻想と戦わなければならなくなる。そこに勝ち目なんてほとんどない。

これが、仮に主観的基準に照らした否定なのであれば、否定された側は笑って無視するか、またはその人の価値判断を信頼しているのであれば、その信頼に基づいて自分の考えを改めればいい。とても簡単なことだ。

また、これが幻想でない、確かな客観的基準に照らした否定なのであれば、否定された側はその客観的基準と戦えばいい。仮に自分が間違っていないのであれば、充分勝ち目はある。
上の例で言えば、ダイエーの経営判断の正当性を主張すればいいのだし、西武の違法性やそれに対する故意を否定すればいいのだし、強行採決が民主主義にとって脅威にならないことを説明すればいい。難しいと思うけど、モラルを否定しなきゃいけない空しさ(それは、ボールが無いのにサッカーをするような空しさに似ていると思う)は、そこにはないはずだ。


価値観は多様化へ向かい、世界はどんどん狭くなっている。
そんな時代に「常識」や「モラル」なんていう旧時代の遺物にすがり付いて楽をしていたら、「お前はどう思うんだ。」という端的で重要な問いに、そのうち答えられなくなってしまうんじゃないだろうか。

まるで、地面に落ちた果実だけをついばむ、翼を失った鳥のように。


_____

このエントリーは、Watch IT,ケータイ,ベンチャーさんの、「今週のトラックバックテーマ」は ・・・ 「モラル」です。と、
このエントリーは、週刊!木村剛さんの、[ブロガー新聞] 「ブロガー新聞」(第3号)にトラックバックしています。

____

追記
「常識」や「モラル」を自律の基準とすることについてまでとやかく言うつもりはないです。その場合はきっと、宗教とか信仰とかに似ているんだと思う。