年始に世古さんから短歌の本をおすすめいただき、いつもの読書の対象として読んでみたところ、一瞬で短歌の虜になってしまった。
その本がこちら「あなたのための短歌集

短歌の何がそんなに僕を惹きつけたのか、自分でもよくわかっていないんだけど、後で読み返すために、今感じていることを書き残しておこうと思う。
なにしろこういうのって、すぐに忘れちゃうものですからね。

情景と心情


短歌の形式的なルールは57577という文字数以外にはないらしい。文字数の数え方に決まりはあるみたいだけれど、そもそも字余り・字足らずが一定程度許容されている以上そこに大きな意味はない。
なのに、57577のリズムで作られた文章がすべて「短歌」に見えるかというと、そんなこともないのがおもしろい。
誰にとっても当てはまる短歌らしさを定義することは多分できないのだろうと思うんだけど、今のところ僕にとっての短歌は、情景と心情が織り込まれているもの、ということになっている。
この「織り込まれている」というのが(個人的には)ポイントで、別に両方書いてある必要があるわけではなく、情景を描写しただけなのに心情がスドンと伝わってきたり、心情を書き連ねているだけなのに明確な情景が背後に透けて見えたりするものの方が好みだったりする。
自作のもので「情景と心情」のどちらも描けなかったものがこちら。これはたまたま31文字になっただけの文章であって、僕にとっては「短歌」という感じではない(ということも作ってみないとわからなかったので、それはそれで意味があったよな、とも今書いていて思った)


抽象化


短歌に許された文字数はたったの31文字なので、具体を描写すると1平方センチメートルくらいしか描くことができない。なので、決定的な1平方センチメートルを切り抜けるような特異なシーンでもない限り抽象化が必須になるのだけれど、これがめちゃくちゃおもしろい。
朝ジムに行く途中に温かい日差しを浴びてとても気持ちよかったので、日差しでなにか詠もうと思った結果出てきたものがこちら。もう、朝ですらないけど、僕の中では「日差しの気持ちよさ」という同じものを見ている。幼虫が蛹の中でドロドロに溶けて蝶になる、みたいな(たまにドロドロのまんま蛹から流れ出てきちゃったりもするんだけれど)


想定外


世古さんのこちらの歌を初めてみたとき、体調悪いときに家族が果物を用意してくれた情景が浮かんだのですが、スレッドの解説を読むと違う情景を詠われたものであることがわかります。
でも、その解釈違いやすれ違いがまたおもしろいんですよね。余白の大きさは、俳句や詩よりもずっと広いように思える。文章を使った絵画みたいな。で、一度解説を読むと、次からはその情景が浮かんでくるわけで、その意味では「だまし絵」みたいでもある。


口ずさんだときの気持ちよさ


口ずさんだときにリズムが気持ちいいのも好き。
こういうやつは、もう内容なんてどうでもいいと言えちゃうくらい。
例えばこれ。内容は、世古さんと全く話を合わせずに短歌アカウントを作ったのに、たまたま「_tanka」を後ろにつけるという対応をしたことをおもしろ半分に57577にしただけのどうしようもないものなんだけど、「末尾のアンダーバー短歌」というリズムが好きすぎて、お気に入りだったりする。こんなどうしようもないものをお気に入りにしているなんてちょっとどうかと思うけど、そういう個人的な好みを持てる懐の広さもまた、短歌のいいところなのかもしれない。


見逃していたもの


短歌を作るようになってから、いろんなものに目が留まるようになったし、過去の記憶を違う視点で眺めるようになった結果、いろんなものを見落としていたんだな、ということに気づいたりもした。見ていたんだけど意識していなかったということに、短歌のネタにしてみて気付いた、とか。
例えばこれは、作っているうちに「ありがたいことだなぁ」なんてしんみりしちゃったりしてね。


誰でも今日からできる


短歌をやってみて実感したんだけど、良し悪しにこだわらなければこれほど簡単な創作活動はなかなかないんじゃないかと思う。写真も手軽ではあるけれど、被写体は必要になる。その点短歌は、脳があればいつでもどこでも手ぶらで始められるし、5分でできちゃったりもする。しかも、そこから始まる推敲もまた楽しいんだよね。
スマホの下書きに思いついた歌を入れておいて、時々立ち上げて推敲して、また閉じる。粘土細工みたいな感じで。

というわけで、2024年は飽きるまで短歌をやってみようと思っています、というお話でした。
ご興味持たれた方は「idの末尾のアンダーバー短歌」で!